3/14/2012

脱原発へのメッセージを再考する


東電原発事故(黄金熊は、福島原発事故という言い方をボイコットすることにしました) のような、大惨事を引き起こしながら、性懲りも無く、またせっかく停止している原発を、再稼動しようという動きあります。 電気が足りなくなるとか、原発交付金なしでは地方経済が崩れるという脅しや、原発事故の被害の過小評価するプロパガンダなど、あらゆる手を使って、推進派は、原発を守ろうとしているように思えます。推進派は利権の塊か~! と、今まで、腹を立てていたのですが、最近、そこまでこだわるのには、東電や原子力村の利権以外に別のところに理由があると思うようになりました。

私は、是非はともかく、日本が原子力技術にこだわるには、安全保障の問題が関わっているからだと、思います。これまで、原子力発電が、日本の核技術の開発の基盤だったわけです。原発を失うということは、核技術を保持する理由を失うようなものです。これは、困る、と、思う勢力があると思います。日本は、核兵器保有は許されない許さない国ですし、国民も敏感です。安全保障にも関わる原子力技術の追求を、電気の追求と置き換えてきたのだと思います。(これは、陰謀論とかではなくて、国策として、原子力技術を持つという選択を日本がしてきたということ。最近、米国の核安全政策に長年かかわってきたアメリカ国防省の元高官による講義などを聞いているうちに、こう推論するようになりました。もちろん、この件については複雑な事情や歴史があるかと思いますが、ここでは、原発への固執の理由が一部の人間の利権以外にもあるだろうということが、ポイントです。)

私の推論ですが、推進派勢力の根っこは、原子力技術推進であって、原発推進とは限らない。だが、現体制下、原発で潤っている利権既得者が、原子力技術推進派を、原発推進派として、うまく取り込んでいるとおもいます。言い換えれば、核技術を保持したい勢力が原発がなければ日本の原子力技術がストップしてしまうと杞憂しているという、利権既得者には好都合な状態になっているというわけです。(特に、誰が意識的にそう謀ったというわけではないが、実態として、そういう構図になったいると思う。)

それで、考えたついたこと。脱原発の運動を進める上では、原子力技術開発と原子力発電を、切り離して論議する。 原発をやめろという人の大部分は、原子力技術をもつことを必ずしも反対しているわけではなく、原発という危険な代物が稼動していることに反対だと思うのです。一方、原発の再稼動にあくまで固執する勢力は、必ずしも電気を安定供給する手段としての原発にこだわっているわけではなく原子力技術そのものが大切だという立場があるのではないでしょうか。だから、脱原発しても、さらなる原子力技術を追求できる方向や可能性を具体的に考えたり示していくことも大切なのではないでしょうか。本当に原子力発電がないと困る利権者は、一部だろうとおもっています。

脱原発を願う人も これから、原発に代わる原子力技術の追求をどうしていくのかということを、別問題として考えていきませんか。 もちろん、核エネルギーそのもの反対という人もいますし、そういう意見も、原子力技術の是非という根本的な課題として、国民が徹底的に考えるべきことです。 でも、原発反対=核技術反対という構図の中では、「とりあえず危険な発電所は停止した上で、課題を議論しましょう」という極真っ当な意見が、原発利権者のみならず、核技術の支持者と、両方からの反対にあいます。戦略的に不利だと思います。わたしは、とりあえす、原発を止めることを最優先すべき目標にすればいいと思います。